doublubonのブログ

色々なことについて書きます

ちぐはぐ服装批判

こんにちは。ここ二、三日でめっきり冷え込みましたね。12月に入ってお天道様も急に冬支度を始めたのでしょうか。エルニーニョ現象がどうのこうので暖冬になるという話を耳にしたのですが、俺の感覚だといつもの冬と大差ありませんね。もうそういう気象予報は信じないスタンスでいこうかなと最近つくづく思った次第でございます。

んでまあ、タイトル通りのことを書いていこうと思うんだけど。前回の記事を思いっきりファッションから離したらアクセスがめちゃくちゃ減ったので、これから服装とかそういうこと中心に書いていけばアクセス数稼げるのでは?という浅薄な考えを持ってしまったのよ。許してくだせえ。
「ちぐはぐな服装」の人を大学の内外問わずよく見かける。ちぐはぐといっても色々とタイプが分かれるので、今回はタイプ別にちぐはぐファッションマンについて検討していきたい。

①季節感がちぐはぐな人
まああれよ、小坊の時学年に一人はいた年がら年中半袖短パンのやつとか、そういう統一性のある人はいいのよ。「ああ、この人寒くないんだなー」となるだけだから。留学生とか、未だにTシャツ着てる人いるしね。俺がここで取り上げたいのは、上下で「!?」ってくらい季節感の異なる装いをしている人である。
例えを挙げてみよう。靴はローファーかデッキシューズ、勿論カバーソックスを履いてくるぶしチラ見せ。これだけならいい。問題は上半身だ。見るからにあったかそうなメルトン地のコートを着て、インナーもちゃんと厚めのニットを着ているのだ。これはまずいでしょ。くるぶしチラ見せの寒々しさと、対照的な上の厚着感が「ちぐはぐ」なのだ。もしかしてあれなのか?暖かい空気は下方に流れて、冷たい空気は上方に流れるとか、そういう科学的視点に立った上でそういう恰好をしているのか?んなわけないわ!どう考えてもおかしいだろ!せめて長い靴下履きなよ…だいたいデッキシューズって真夏に履くような靴だよ…ぜったいつま先かじかんで痛いよそれ…
次はもう少しわかりやすい。ヘビーアウターのインナーがペラペラのTシャツ一枚。いやね、わかりますよ。エミネムとかよくTシャツの上に革ジャン羽織って、かっこいいもんね。だけどその服装が許容されるのって秋口までだよ。断っておくけど、俺はこうやってブログで批判するけど、それは単純にネタになるからであって、現実で人の服装についてとやかくいうようなことはしないよう心がけているつもりだ。だけどさすがにそのTシャツコート勢は…「寒くない?」と一声かけたくなるくらいには心配になる。もうちょっと中に何か着よう。風邪引くぞ。
こんなふうに文句言いっぱなしだが、少し彼らのことを擁護する気持ちもある。なんと言えばいいのか、彼らのやってる着こなしってなんかちょっとかっこいいのだ。俺も真冬にも関わらず寒々しい足元でドヤ(この言葉あまり好きじゃない)ってた時期がある。まあけど単純に「ちぐはぐだな」と自覚してからは、そういうのは自粛してます。はい。ノルディック柄の野暮ったい靴下をチラ見せするよりも、足首見せたほうがスタイリッシュな気がする。まあこれは俺の完全な偏見なので無視してもらっていただいて結構だ。

②アイテムの組み合わせがちぐはぐな人
これはちょっと前に書いた記事でも少し触れたやつだ。①の人たちより、俺はこちらを強く批判していきたい。こういった輩は大学生に多いイメージがあるのだが、またしても俺の偏見なのだろうか。季節問わず色々なところに出現するこの手の連中を見るたびに俺は「アチャー」とおでこを叩く。
代表的なものをいくつか挙げてみる。テーラードジャケットワークブーツ!これは本当によく見かける組み合わせだ。素材がコットンでアースカラーのジャケットならまだ許されよう。しかしながら巷に溢れているのは、「ザ・テラジャケ」にアイリッシュセッターを合わせるような不届き者だ。各々のアイテムの出自を考慮すれば、そんな恰好は絶対にできないと思うのだが…。その亜種として最近では流行りのチェスターコートにごっついワークブーツを組み合わせている人もいるようだ。せめてサイドゴアブーツにしろよ…。今日は三点リーダが大活躍である。
つまり、きれい目とワーク系という服装のジャンルでいえば対極にあるものどうしを平気で一つのコーディネートに取り入れてしまうセンスが理解できないのだ。スニーカーとかならまだわかる。だが、先述したような服装は、極論すればスーツのセットアップを着てカントリーブーツを履くようなものである。端的にそれは愚行だ。いくらなんでもそれは愚行である。何度でも言うが、時代の移り変わりとともにある服が本来の使用目的を離れてより自由に着こなせられるようになるのは、良いことだ。しかし、自由といっても限度がある。極端に逸脱するのがお洒落だというのなら、俺は過去を顧みない薄っぺらなお洒落さなんていらない。要は温故知新なのである。出自を踏まえて少しだけ逸脱する、そのさりげない逸脱の部分にその人のセンスが見られるのではないだろうか。

③ブランドの系統がちぐはぐな人
さあ、どんどんいこう。②に続きこちらも俺は何回か言及してきた。そしてこういうのも②と同じ理由で俺は結構許せないものがある。
東京は本当に洒落者が多い。セレクトショップもブランド直営店も揃ってるし、手に入らないものは存在しないからだろう。世界広しといえど、東京ほど消費行為を存分に謳歌できる都市もないだろう。東京は常に欲望を喚起する。「お前はもっとお洒落になれる。かっこよくなれる。きれいになれる。異性からモテるようになる」と、街を歩けば常に語りかけられているようなものだ。ここに節欲などというモラルは存在しない。消費こそが至上であり、消費こそが何をおいてもまずなされるべき行為なのだ。良いか悪いかは別として、そういう場所だからこそ洒落た人が多い。
だが、「?」となることがよくある。全身ブランドに身を固めた若者が歩いている。シュプリームのボックスロゴキャップに、ジョーダン8。ここまではわかる。王道そのものだ。かっこいい。そしてパンツは?ん?ケツに派手な刺繡が入ってるぞ?うわ…ヴィヴィアンのオーブがでかでかとケツに…マジか…。
まあヴィヴィアンのデニムなんて履いている人は滅多に見ないのだが、この組み合わせは正直引いてしまった。なぜ!なぜ!シュプリームとヴィヴィアンなんだ!ブランドの身上が全然違うじゃん!そうなのである。シュプリームがスケーターファッションの象徴なら、ヴィヴィアンはパンクファッションの象徴だ。確かに「反骨精神」というところで共通点はあるかもしれない。だが、うーん。いくらなんでもそういう着こなし方は、俺には理解できないなあ。もし俺がヴィヴィアンのそのデニムを履くのだとしたら、迷うことなくマーチンの10ホールを合わせるし、迷うことなくダブルのライダースを合わせるし。まあ古典的パンクである。さすがにここまで徹底的にやれとは言わないが、ブランドの方向性とか、そういう背景的なところも含めてブランドの服を着ないなら、正直言ってブランドものを購入する意味がないのではないかなあと思ってしまう。ロゴにだけ集約されてしまうブランド品なんてあまりにも味気ないし、なんというか非常に「資本主義の奴隷」感が出る気がする。
個人的に、着ているブランドの信念とその人の価値観が一致、或は似ている人が好きなのだ。ラップミュージックが好きで、スケボーを楽しんでいる人がヴァンズのスニーカーを履いていると、なんだかしっくりくるのである。エイサップロッキーが好きだから頑張ってお金を貯めてHood By Airを着るのもいい。別にストリートブランドに限らず、どんなブランドでも立ち上げ当初の理念は大事にしているはずである。そういうところを気にしたら、少なくともヴィヴィアンとシュプリームを合わせるなんてできない気がする(こんなこと言っておいて、この二つのブランドがコラボとかしたらめちゃくちゃ恥ずかしい)。


今まで書いてきて、俺は本当に、ファッションに関してはコンサバもいいところだなと思った。何か身につける時にそれについて調べる癖みたいなのがついていて、やっぱり一番大事にしたいのは「なぜそのアイテムはそういう形なのか?いったいどういう目的で着られてきたのか?」というところなのだ。歴史を調べると自ずとその歴史に縛られてしまう。だが、そうやてって自縛することである程度統一感のある服装ができるのもまた事実だ。ファッション誌を買うのもいいが、あれはあくまで「トレンド」というものに対してどのようにアプローチをかけるか、ということの方法論を提示しているだけだ。ダッフルコートを流行らせたいのなら既存の流行にどう落とし込むかとか、それだけなのである。まあそれが難しいのかもしれないが、少なくともトレンドとの親和性云々でしか服装を語ることのできないファッション誌は、所詮そこまでの媒体である。着こなしは全てファッション誌の一週間着まわしコーデに還元されるものではない。そこのところに関してはもっと自由になるべきであって、だからこそ俺たちはファッション誌的お洒落に縛られるのでなく、もっと多様なお洒落の「型」を探すべきなのだと思う。