doublubonのブログ

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「当為」か「規範」か?

ルカによる福音書第10章25節から始まる、所謂「善きサマリア人のたとえ」。これは、キリスト教の基本的教義である「隣人愛」について最も端的に説明した箇所として知られている。
俺が勉強する限りの知識によると、このたとえは信仰する宗教や民族、国家の違いを超えてただ「慈悲の心」をもってしてサマリア人が道半ばで倒れている人(おそらくはユダヤ人)を助けた、ということである。これは多分にカトリック的な解釈なのかな?んで、サマリア人は途上でその人を見かけると「哀れに思い」、介抱を試みる。確かに、人種や宗教や国家といった枠組みを超えて連帯を図る、という意味でこの行為は称賛されてしかるべきものであろう。しかしながら、オーストリアの哲学者イヴァン・イリイチは、このたとえを用いてキリスト教を批判している。彼は、「当為」として行うべきであるこのような救済を、キリスト教が規範化したことによって持つべき気質が制度化された宗教の中で承認されるようになっていると主張した。慈善の「気質」ではなく「制度」を創出することで宗教の権威基盤がより強固なものになったということである。


この解釈に即してサマリア人のたとえについて考えてみると、ある顛倒が起こる。「助けたいから(自分の憐れみの心から)助ける」のではなく「教義に即した行為をなすため(規範を守るため)に助ける」となる。つまり、善行する主体に憐れみの心情が発露するか否かは関係がなく、ただ規範的にそうしなければならないからそうする、というふうになる。その人個人の内面については何ら問題にされない。換言すれば偽善的、欺瞞的ともいえるだろうか。内発的か外発的か、とも捉えることができるだろう。恐らく、このサマリア人は特に宗教などといった外発的要因によって倒れている人を助けたのではなく、内発的な動機、つまり憐れみが彼を動かしたのである。しかしここでイエスは、そのような心情を問題にしてはいない。


このような顛倒は日常のありとあらゆるところに存する。「就活」という制度で良い結果をあげるための海外ボランティア(言わずもがな、これは外発的だ)などが良い例ではなかろうか。「結果として他者を助けていることになるのだから、心情などどうでもよい」という人がいる。しかし、これは俺個人の感覚なのだが、それはあまりに空虚なことではないだろうか。ボランタリーでないボランティアに意味があるのか?外部の規範に従って行動するだけで「善い人間」になれるのならば、それは簡単だ。しかしそれは、おそらく奴隷的態度である。確かに、個人が持ちうる慈悲の心、憐れみの心には限界がある。イライラしていたり疲れている時に、困っている人を助けるのはなかなか難しい。だからといって、その救いきれなさを外部が簡単に補完してしまっていいのだろうか?人間性の最も崇高な側面を義務化してしまってよいのだろうか?「当為」か「規範」か。あなたはどっちがお好き?