doublubonのブログ

色々なことについて書きます

ちぐはぐ服装批判

こんにちは。ここ二、三日でめっきり冷え込みましたね。12月に入ってお天道様も急に冬支度を始めたのでしょうか。エルニーニョ現象がどうのこうので暖冬になるという話を耳にしたのですが、俺の感覚だといつもの冬と大差ありませんね。もうそういう気象予報は信じないスタンスでいこうかなと最近つくづく思った次第でございます。

んでまあ、タイトル通りのことを書いていこうと思うんだけど。前回の記事を思いっきりファッションから離したらアクセスがめちゃくちゃ減ったので、これから服装とかそういうこと中心に書いていけばアクセス数稼げるのでは?という浅薄な考えを持ってしまったのよ。許してくだせえ。
「ちぐはぐな服装」の人を大学の内外問わずよく見かける。ちぐはぐといっても色々とタイプが分かれるので、今回はタイプ別にちぐはぐファッションマンについて検討していきたい。

①季節感がちぐはぐな人
まああれよ、小坊の時学年に一人はいた年がら年中半袖短パンのやつとか、そういう統一性のある人はいいのよ。「ああ、この人寒くないんだなー」となるだけだから。留学生とか、未だにTシャツ着てる人いるしね。俺がここで取り上げたいのは、上下で「!?」ってくらい季節感の異なる装いをしている人である。
例えを挙げてみよう。靴はローファーかデッキシューズ、勿論カバーソックスを履いてくるぶしチラ見せ。これだけならいい。問題は上半身だ。見るからにあったかそうなメルトン地のコートを着て、インナーもちゃんと厚めのニットを着ているのだ。これはまずいでしょ。くるぶしチラ見せの寒々しさと、対照的な上の厚着感が「ちぐはぐ」なのだ。もしかしてあれなのか?暖かい空気は下方に流れて、冷たい空気は上方に流れるとか、そういう科学的視点に立った上でそういう恰好をしているのか?んなわけないわ!どう考えてもおかしいだろ!せめて長い靴下履きなよ…だいたいデッキシューズって真夏に履くような靴だよ…ぜったいつま先かじかんで痛いよそれ…
次はもう少しわかりやすい。ヘビーアウターのインナーがペラペラのTシャツ一枚。いやね、わかりますよ。エミネムとかよくTシャツの上に革ジャン羽織って、かっこいいもんね。だけどその服装が許容されるのって秋口までだよ。断っておくけど、俺はこうやってブログで批判するけど、それは単純にネタになるからであって、現実で人の服装についてとやかくいうようなことはしないよう心がけているつもりだ。だけどさすがにそのTシャツコート勢は…「寒くない?」と一声かけたくなるくらいには心配になる。もうちょっと中に何か着よう。風邪引くぞ。
こんなふうに文句言いっぱなしだが、少し彼らのことを擁護する気持ちもある。なんと言えばいいのか、彼らのやってる着こなしってなんかちょっとかっこいいのだ。俺も真冬にも関わらず寒々しい足元でドヤ(この言葉あまり好きじゃない)ってた時期がある。まあけど単純に「ちぐはぐだな」と自覚してからは、そういうのは自粛してます。はい。ノルディック柄の野暮ったい靴下をチラ見せするよりも、足首見せたほうがスタイリッシュな気がする。まあこれは俺の完全な偏見なので無視してもらっていただいて結構だ。

②アイテムの組み合わせがちぐはぐな人
これはちょっと前に書いた記事でも少し触れたやつだ。①の人たちより、俺はこちらを強く批判していきたい。こういった輩は大学生に多いイメージがあるのだが、またしても俺の偏見なのだろうか。季節問わず色々なところに出現するこの手の連中を見るたびに俺は「アチャー」とおでこを叩く。
代表的なものをいくつか挙げてみる。テーラードジャケットワークブーツ!これは本当によく見かける組み合わせだ。素材がコットンでアースカラーのジャケットならまだ許されよう。しかしながら巷に溢れているのは、「ザ・テラジャケ」にアイリッシュセッターを合わせるような不届き者だ。各々のアイテムの出自を考慮すれば、そんな恰好は絶対にできないと思うのだが…。その亜種として最近では流行りのチェスターコートにごっついワークブーツを組み合わせている人もいるようだ。せめてサイドゴアブーツにしろよ…。今日は三点リーダが大活躍である。
つまり、きれい目とワーク系という服装のジャンルでいえば対極にあるものどうしを平気で一つのコーディネートに取り入れてしまうセンスが理解できないのだ。スニーカーとかならまだわかる。だが、先述したような服装は、極論すればスーツのセットアップを着てカントリーブーツを履くようなものである。端的にそれは愚行だ。いくらなんでもそれは愚行である。何度でも言うが、時代の移り変わりとともにある服が本来の使用目的を離れてより自由に着こなせられるようになるのは、良いことだ。しかし、自由といっても限度がある。極端に逸脱するのがお洒落だというのなら、俺は過去を顧みない薄っぺらなお洒落さなんていらない。要は温故知新なのである。出自を踏まえて少しだけ逸脱する、そのさりげない逸脱の部分にその人のセンスが見られるのではないだろうか。

③ブランドの系統がちぐはぐな人
さあ、どんどんいこう。②に続きこちらも俺は何回か言及してきた。そしてこういうのも②と同じ理由で俺は結構許せないものがある。
東京は本当に洒落者が多い。セレクトショップもブランド直営店も揃ってるし、手に入らないものは存在しないからだろう。世界広しといえど、東京ほど消費行為を存分に謳歌できる都市もないだろう。東京は常に欲望を喚起する。「お前はもっとお洒落になれる。かっこよくなれる。きれいになれる。異性からモテるようになる」と、街を歩けば常に語りかけられているようなものだ。ここに節欲などというモラルは存在しない。消費こそが至上であり、消費こそが何をおいてもまずなされるべき行為なのだ。良いか悪いかは別として、そういう場所だからこそ洒落た人が多い。
だが、「?」となることがよくある。全身ブランドに身を固めた若者が歩いている。シュプリームのボックスロゴキャップに、ジョーダン8。ここまではわかる。王道そのものだ。かっこいい。そしてパンツは?ん?ケツに派手な刺繡が入ってるぞ?うわ…ヴィヴィアンのオーブがでかでかとケツに…マジか…。
まあヴィヴィアンのデニムなんて履いている人は滅多に見ないのだが、この組み合わせは正直引いてしまった。なぜ!なぜ!シュプリームとヴィヴィアンなんだ!ブランドの身上が全然違うじゃん!そうなのである。シュプリームがスケーターファッションの象徴なら、ヴィヴィアンはパンクファッションの象徴だ。確かに「反骨精神」というところで共通点はあるかもしれない。だが、うーん。いくらなんでもそういう着こなし方は、俺には理解できないなあ。もし俺がヴィヴィアンのそのデニムを履くのだとしたら、迷うことなくマーチンの10ホールを合わせるし、迷うことなくダブルのライダースを合わせるし。まあ古典的パンクである。さすがにここまで徹底的にやれとは言わないが、ブランドの方向性とか、そういう背景的なところも含めてブランドの服を着ないなら、正直言ってブランドものを購入する意味がないのではないかなあと思ってしまう。ロゴにだけ集約されてしまうブランド品なんてあまりにも味気ないし、なんというか非常に「資本主義の奴隷」感が出る気がする。
個人的に、着ているブランドの信念とその人の価値観が一致、或は似ている人が好きなのだ。ラップミュージックが好きで、スケボーを楽しんでいる人がヴァンズのスニーカーを履いていると、なんだかしっくりくるのである。エイサップロッキーが好きだから頑張ってお金を貯めてHood By Airを着るのもいい。別にストリートブランドに限らず、どんなブランドでも立ち上げ当初の理念は大事にしているはずである。そういうところを気にしたら、少なくともヴィヴィアンとシュプリームを合わせるなんてできない気がする(こんなこと言っておいて、この二つのブランドがコラボとかしたらめちゃくちゃ恥ずかしい)。


今まで書いてきて、俺は本当に、ファッションに関してはコンサバもいいところだなと思った。何か身につける時にそれについて調べる癖みたいなのがついていて、やっぱり一番大事にしたいのは「なぜそのアイテムはそういう形なのか?いったいどういう目的で着られてきたのか?」というところなのだ。歴史を調べると自ずとその歴史に縛られてしまう。だが、そうやてって自縛することである程度統一感のある服装ができるのもまた事実だ。ファッション誌を買うのもいいが、あれはあくまで「トレンド」というものに対してどのようにアプローチをかけるか、ということの方法論を提示しているだけだ。ダッフルコートを流行らせたいのなら既存の流行にどう落とし込むかとか、それだけなのである。まあそれが難しいのかもしれないが、少なくともトレンドとの親和性云々でしか服装を語ることのできないファッション誌は、所詮そこまでの媒体である。着こなしは全てファッション誌の一週間着まわしコーデに還元されるものではない。そこのところに関してはもっと自由になるべきであって、だからこそ俺たちはファッション誌的お洒落に縛られるのでなく、もっと多様なお洒落の「型」を探すべきなのだと思う。










「苦労至上主義」

最近ファッション関連の記事が続いていたので少し趣向を変えようと思う。

苦労至上主義

大学の知人の幾人かがだいたいこんな感じの価値観を持っていて、正直うんざりしている。彼ら彼女らは人生において苦労を至上のものとみなし、苦労していない(と思われる)人を「あいつは今まで何不自由なく生きてきた薄っぺらい人間だ」と糾弾して憚らないし、あまつさえ「私は苦労している」というようなニュアンスの発言も時たまする。いやはや、けっこうけっこう。あなたは沢山の苦労を重ねてきたのだね。それは辛かったろう。まずは一回黙ろうか。

別に、苦労至上主義者たちの苦労自慢が鼻につくわけではない。誰しも自分の苦い経験を美化させたい願望はあるものだし、それがついつい口に出てしまうことを俺は目ざとく指摘するつもりはない。ただ俺が気にくわないのは、そんな自分の経験を絶対化し、自分の価値基準に照らして他者の良し悪しを決定する傲慢な態度である。一体お前の経験にどれだけの価値があるのか?親から仕送りをもらって一切バイトしていない人間が、実は小児ガンで苦しんでいてバイトすることすらままならない可能性(極論だが)を彼らは一切考慮しないのである。
まあ、早い話がラベリングだ。「あいつは苦労知らず」とレッテルを貼ることでその人間の属性を一元的なものに押しとどめようとする。実家から通うのが一人暮らしするお金がないからかもしれないのに、バイトしないのがのっぴきならない事情があるからかもしれないのに、この苦労至上主義者たちはそんな有り得る可能性全てを苦労していないの大号令の名の下に圧し潰す。だいたい奴らの言う苦労なんてバイトをしてるとかしてないとか、そういうチンケなものなんだ。小学生並みのことを言うようだが、そもそも苦労とは数値化できないアナログな概念だ。この人の苦労があの人の苦労に優越しているとかそういうことはありえない。比較することさえ困難な「苦労」という概念をむやみやたらに乱用し、気にくわない人間を断罪するのははっきり言って幼稚だ。そんな恥知らずな行いを彼らは知ってか知らずか平気でやる。あくまで持論なのだが、だいたい同じくらいの年数を生きてきた人間に対して「薄っぺらい」と決めつける行為は、その人がここまで漸くたどってきた歴史全てを否定することだ。だいたい同じくらい生きてきたのだからこそ、どんなに見た目はヘラヘラしてて苦労も努力もしてなさそうであってもどこかに見習うべき点というのはあるはずである。苦労至上主義者たちはこの可能性全てを否定するのである。ちっぽけな自分の経験をものさしにして。ああ、なんて滑稽なのだろう。世の中苦労人なんて沢山いるのだ。お前なんて大学に入って楽しんでいるという時点で取るに足りない。たかが20年かそこらしか生きてきてない人間が苦労を語るなんて半可通も甚だしい。俺たちはまだ若い。俺たちはまだ世界の何も知らない。自分の経験の乏しさやショボさを自覚して初めて人間はちょっとだけ変われるんじゃないだろうか。そういう意味で苦労至上主義者たちは自分の「辛い過去」にしがみついて前進することのできないただの臆病者だ。



俺の所属する大学は日本でも有数の規模を誇っている。大学全体でおおよそ5万人くらい学生がいるのか、確か。そんなだからみな入学直後はある種のアイデンティティクライシスに陥る。そりゃそうだ。今までせいぜい大きな高校であっても500人の内の一人だったのが、いきなり5万人の内の一人になるわけだから。だからかわからないが、みな自分の個性を確立しようと必死になる。飲み会で騒ぐ、キャンパスで騒ぐ、授業で騒ぐ等々。騒ぐことでしか自分を保てないやつはどうぞ中退してくださいという感じだが、ほんとにこういう目立ちたがり屋ばっかりだ。俺がそこから免れているとは思わないが、少なくとも授業中は静かにするくらいの良識は持ち合わせているつもりである。さっきの苦労至上主義者たちとこの目立ちたがり屋たちはおそらく同じメンタリティを持っていると俺は思っていて、それは何かというと「自分は唯一無二の存在だ」というものだろう。はっきり言っておくが唯一無二の人間などいない。「かくあるべし」的理想の人間像がメディアを通して遍く世界に広められた結果、どれだけ個性的たろうとしたところで「○○みたいだね」としかならないのである。個性は今日、薄くて味気ないモノマネとしてしか認識されない。誰もが個性を発揮できる社会など少なくとも日本には存在しない。


かといって、俺は「わかってる大人」ぶろうとも思っていない。個々人のユニークさはもはやなくなってしまった。だからなんだ、という話だ。自分が没個性的な人間だと分かった上で何ができるか、問題はそこだろう。そして何よりも、他者に承認されて初めて実感できる個性などハナから個性ではないのだ。個性は自分の内に育むものだ。他者と比較するものなどではない。「あいつはこうだが、俺はこうだ」ではなく、「俺はこうだ」これだけでいい。苦労至上主義者も目立ちたがり屋も、他者と比べた上で初めて自分の存在意義を確認している。それじゃあ弱い。自分一人だけで自分を認められるタフさが求められている。












ジーンズについてその②

さきほど購入したLVC606の各部をを撮影した。
f:id:doublubon:20151201234657j:image全体はこんな感じである。ちょっと暗い?
f:id:doublubon:20151201234709j:image背面。どっかのヌーディーと違ってバックポケットは高め。
f:id:doublubon:20151201232811j:imageMADE IN USAのマーク。つかリーバイスでアメリカ製造のやつ初めて買った…。
f:id:doublubon:20151201232920j:imageフロントポケット付近のディテール。さすがに縫製もしっかりしている。
f:id:doublubon:20151201232947j:imageケツポケ周り。ご覧あれ、本当にアーキュエットステッチないでしょう。加えて珍しい黒とオレンジの反転タブ。もちろんビッグEですぜ。
f:id:doublubon:20151201233128j:image紙袋もヴィンテージのフロアだけ別物らしく、ビッグEだった頃のリーバイスのブランドロゴをその都度でっかいスタンプで紙袋にほどこすというニクい仕様だ。
f:id:doublubon:20151201234731j:imageじゃらじゃらとタグが付いていたが、これもおそらくヴィンテージを意識している。

だいたいこんな感じである。写真撮影が下手くそなのは堪忍してや。

ジーンズについて

最近、リジッドのジーンズが欲しくて色々と探していたのだが、大凡二週間にわたって悩み悩んだ結果、リーバイスのヴィンテージラインを選んだ。606という、スキニーフィットのモデルである。値段は確かにしたが、やっぱりキングオブジーンズブランド、他に見たブランドと比較しても圧倒的にかっこよかった。当面は10年選手を目指してガンガン履いていこうと思う。リジッドでしかもストレッチが一切効いていないので、最初の履き心地はお世辞にも良いものではない(むしろ悪い)のだが、まあそこは履いていくうちに馴染んでいくことを期待する。3年前くらいにヌーディージーンズのリジッドスキニーを購入したのだが、それはストレッチがかなり効いていてものすごく履きやすかった反面、ヒゲやアタリが綺麗につかなかった。なんでも、柔らかいデニム地だとシワがよりづらく、必然的にヒゲなどがつきにくくなるらしい。別にジーンズを育てるとかそういうオッサン的嗜好は持っていないのだが、せっかく長く履くなら履いた分だけ自分の色は出て欲しいなと思ったのと、単純にポリ混(つまりストレッチ)のジーンズは簡単に破けるということが経験的に明らかになったのでこの選択に落ち着いた次第である。んで、せっかく長く履けるジーンズを手に入れたので、今回は俺が試着して、結局購入には至らなかったブランドに対する考察も含め、色々とジーンズについて書いていこうとと思う。

なぜ俺が最近になってジーンズが欲しくなったかというと、単純に前履いていたやつがぶっ壊れたからである。ジーンズとチノ、二本とも股間の部分にどデカい穴が開いてしまったのだ。俺が実家暮らしだった頃、最寄駅まで自転車で移動していたせいで股間部分が早々に破けてしまったというわけだ。ちなみに両方ともヌーディージーンズ。当時の俺はヌーディー狂いで、もうとにかくあのケツのステッチが好きだったしあのシルエットも好きだったしなにより軽くストレッチの効いたあの履き心地に病み付きだった。まあ、好みは変わるもので、今となってはあの派手なステッチや冗談みたいにバックポケットが下がったオムツみたいなシルエットは大嫌いなのだが。普通に履いていても腰パンみたいになってしまうのが、みっともないと思うようになってしまった。
そんな中で発生した風穴事件である。小さい穴の段階で修理していればまだ履けたのかもしれないが、いかんせん俺はもうヌーディーに対して欠片も魅力を感じなかったし、なによりストレッチのせいでジーンズそのものがダルダルに伸びきってしまって、もはやスキニーとはいえない代物に成り下がっていたので「これはチャンス!」と構うことなく履き続け、チャリをこぎ続け、結果的に500円玉が一つどころか三つは入るであろう洞穴をこしらえたわけである。もうこれで修理はできない=買い替えが必要、と新しいパンツ購入の大義名分を得た俺は、早速新しく購入するジーンズを検討し始めた。真っ紺で、細身で、ゴワゴワのリジッド、という三つの条件を立て、俺はジーンズブランド、或はジーンズも出してるブランドをリサーチし始めた。因みに俺は身長184センチ、体重75キロで、肩幅はあるが脚は割と細めである。


一番最初に検討したのがこのブランドである。頭からつま先まで、なんでも扱っている総合アパレルブランドだが、特にジーンズは有名だ。「New Standard」「Petit Standard」「Petit New Standard」の三つのモデルを主軸に展開しているのだが、シルエットの良さやミニマルなデザインなんかはかなり俺好みだったので、最後までリーバイスと悩んだブランドである。ネットの情報だけでは最終的な決断を下せなかったので、リーバイスに行く前にこのジーンズを扱っているショップに行き、試着した。なんというか、確かにすらっとしていて良かったのだが、腰回りのゆとりはかなりあるにも関わらず腿がパツパツでキツく、なんかヘンテコなサイズ感だったのでネットの情報以上に惹かれることはなかった(俺の腿が太いとか、そういう可能性について考えるのはやめよう)。スキニーとはいってもスパッツみたいな脚の形丸わかり!的スキニーは個人的に嫌いだし、ワンサイズあげると腰回りがゆるゆるすぎて不安を感じるレベルだったので結局購入には至らなかった。因みにそのショップ、A.P.C.のリジッドジーンズはプチスタしか扱っていなかったのだが、プチニューだったらまた何か違ったのかもしれない。けどもう違う店に探しに行くのが億劫だったので、A.P.C.はやめておこう、となった。購入するなら次の機会に、という感じのブランドである。

②Nudie Jeans
悲しいかな、やはり昔好きだったブランドは今でも気になってしまうものである。A.P.C.のジーンズを試着した後にたまたま直営店の前を通ったので、せっかくだし、という感じで覗いてみた。
店員によると最近新しいモデルを結構な頻度で出しているらしく、どんなもんか、と手にとって値札を見たら、無加工のくせして3万7千円とかいうべらぼうな値段であった。アホか!いくら有名になったからといって、そんな殿様商売の店で買えるか!という感じである。俺が3年前、同じショップで買った時には少なくとも3万以上するモデルはかなり加工されていたものに限定されていて、リジッドはだいたい2万円前後だった記憶がある。それが今じゃこの有様である。舐めているとしか言いようがない。あくまで俺の仮説だが、昔から作っているベーシックなモデルに関しては値段を据え置いて新規客に対するハードルはそのままに、何本もヌーディーを持っている固定客に対してはバカみたいに高い新しいモデルを提示して買わせる魂胆なのだろう。ここまでディスりまくってしまったが、本当に、少なくとも俺にとってただのリジッドジーンズが3万強なんてちゃんちゃらおかしい話なのだ。以前まで本当に好きなブランドだっただけに、こういうことされるとショックだ。販売戦略というものがあるのだろうが、俺はこういうやり方は好きになれないなあ。一本、そのバカ高いのを試着したが、別に何が良いというわけでもない普通のヌーディーである。「まあこんなもんか」と、この、一昔前に俺を虜にしたブランドに見切りをつけ、俺はリーバイスに向かった。

③Levi's
さて、三軒目は前々から考えていたご存知リーバイスである。一月くらい前にたまたまリーバイスストアを訪れる機会があり、そこで本当にたまたま手にとったヴィンテージコレクションの606に一目惚れしたのである。今までジーンズが欲しいと思ってもリーバイスなんて選択肢にすらならなかったのだから、これは衝撃である。事件である。なんといってもこの606、リーバイスの全てのモデルについているあのステッチがないのである(あのケツについているカモメみたいなやつだ)。それが俺の購買意欲をかき立てた。リーバイスが選択の俎上にあがらなかったのは、単純にあのステッチが好きじゃなかったからだ。とことんシンプルなやつがいい、という思いでジーンズを探していた俺にとってケツのステッチの有無は重要である。加えて無骨なイメージがつきまとうリーバイスにしてはかなりスマートな形である。スキニーなんだから当たり前かもしれないが、これはマジでそうと言われなかったらリーバイスとは絶対にわからない仕様なのだ。そこに強く惹かれた俺は、もう一度試着をしてみた。やはりいい。ゴワゴワだ。クソ履きづらい。だがかっこいい。リジッドなんてそんなものだろう。寧ろ履きやすい無加工ジーンズなんて邪道だ。そう思うくらいに606の魅力に洗脳された俺は、他のブランドはどうなのかという気持ちを若干引きずりながらも、まあA.P.C.にそこまで魅力感じないのなら他のも一緒か、と自分に言い聞かせて606を購入したのである。結果、満足している。前の記事にも書いたように高い服を買った後によく賢者になる俺だが、今回に関してはそれはなかった。悩みに悩んだおかげである。店員に色々と他のブランドを試着した上で606に決めた旨を伝えたのだが、彼曰く「色んなブランドを通過して、最終的にリーバイスに戻ってくるお客様は結構多いですよ」とのこと。まあ俺がそうなるかどうかはわからないが、少なくとも以前のようにリーバイスを「元祖といっても低価格・大量生産に走った落ち目のブランド」とは思わないだろう。認識が改まった。リーバイスはやはりキングオブジーンズブランドである。今まで馬鹿にしてすんませんでした。


というプロセスがあって、最終的にリーバイスのジーンズを購入するに至ったのである。
今、出先でこの記事を書いているので、帰ったら写真を撮ってあげようかなと思う。

ところで話はそれるが、ネットでジーンズについて色々調べていたら「ユニクロのスキニーと他のブランドのスキニーを履き比べる」という趣旨のブログを見つけた。要するに「ユニクロのジーンズ、安いけど見た目は全然お高いブランドと変わらないよ!」ということを周知させるための取り組みなのだろうが、ハッキリ言ってナンセンスだなと思った。大体写真で見てわかることなんて限界がある。色味や細かい縫製等のディテールは勿論、デニム地のoz(数字が上がるほど分厚くなる)だって実際に手にとってみないとわからない。このozでシワのつき方やシルエットもだいぶ変わってくるものだ。それを、本当にざっくりとした違いしかわからない写真という手段をもってして「同じ」というのは、ちょっと違うのではないだろうか。まあ、「似通っているならそれでいいじゃん」という人向けの試みだろう。俺みたいにクソ細かいところまで見てしまう人間にとって、過剰なユニクロの持ち上げは単純にナンセンスでしかない。
シルエット云々は別として、意外にジーンズ含めパンツが高いか安いかは見てすぐにわかる。生地の良し悪しなんてほんと一瞬でわかるし、特にジーンズは加工の具合をちょっと見れば安いのはすぐ見分けがつく。具体的に書くのは中々難しいのだが、なんというか「値段なり」を割と顕著に反映しているのがパンツだと思う。服に気を遣ってみようかなと思っている人は、まず靴、次にカバン、余裕があればパンツにある程度投資することをお勧めする。Tシャツなんてどうせワンシーズンで着なくなるのだから、ユニクロアメアパの無地Tでよいのだ。

話は戻って俺のジーンズ選びについてだが、有名ドメブラも多少は検討した。ファクトタムやラウンジリザードである。値段もそこまでしないし縫製もしっかりしているし形も綺麗、となれば食いつかないわけがないのだが、何故かそこまで食指が動かなかった。ファクトタムはステッチが入っている点でもう選択肢から外れる。ラウンジリザードはことスキニーに関してはものっそい細いという話だったので多分俺には履けないかなという理由でやめた。いくら脚が細めとはいっても、ドメブラの細さは尋常じゃないものがあるのでラウンジ以下、別ブランドもおそらくその理由で演繹的に諦めた。全て検討する時間もないし、このやり方間違っていないと思う。

長々と書いてしまったが、ジーンズ談義はこれくらいにしておこう。まだ書こうと思えば書けるのだがいかんせん時間がない…。非常に個人的なジーンズ選びについてであったが、見てくれている人の参考になれば幸いである。コメント等いただければ随時お答えするつもりである。



「当為」か「規範」か?

ルカによる福音書第10章25節から始まる、所謂「善きサマリア人のたとえ」。これは、キリスト教の基本的教義である「隣人愛」について最も端的に説明した箇所として知られている。
俺が勉強する限りの知識によると、このたとえは信仰する宗教や民族、国家の違いを超えてただ「慈悲の心」をもってしてサマリア人が道半ばで倒れている人(おそらくはユダヤ人)を助けた、ということである。これは多分にカトリック的な解釈なのかな?んで、サマリア人は途上でその人を見かけると「哀れに思い」、介抱を試みる。確かに、人種や宗教や国家といった枠組みを超えて連帯を図る、という意味でこの行為は称賛されてしかるべきものであろう。しかしながら、オーストリアの哲学者イヴァン・イリイチは、このたとえを用いてキリスト教を批判している。彼は、「当為」として行うべきであるこのような救済を、キリスト教が規範化したことによって持つべき気質が制度化された宗教の中で承認されるようになっていると主張した。慈善の「気質」ではなく「制度」を創出することで宗教の権威基盤がより強固なものになったということである。


この解釈に即してサマリア人のたとえについて考えてみると、ある顛倒が起こる。「助けたいから(自分の憐れみの心から)助ける」のではなく「教義に即した行為をなすため(規範を守るため)に助ける」となる。つまり、善行する主体に憐れみの心情が発露するか否かは関係がなく、ただ規範的にそうしなければならないからそうする、というふうになる。その人個人の内面については何ら問題にされない。換言すれば偽善的、欺瞞的ともいえるだろうか。内発的か外発的か、とも捉えることができるだろう。恐らく、このサマリア人は特に宗教などといった外発的要因によって倒れている人を助けたのではなく、内発的な動機、つまり憐れみが彼を動かしたのである。しかしここでイエスは、そのような心情を問題にしてはいない。


このような顛倒は日常のありとあらゆるところに存する。「就活」という制度で良い結果をあげるための海外ボランティア(言わずもがな、これは外発的だ)などが良い例ではなかろうか。「結果として他者を助けていることになるのだから、心情などどうでもよい」という人がいる。しかし、これは俺個人の感覚なのだが、それはあまりに空虚なことではないだろうか。ボランタリーでないボランティアに意味があるのか?外部の規範に従って行動するだけで「善い人間」になれるのならば、それは簡単だ。しかしそれは、おそらく奴隷的態度である。確かに、個人が持ちうる慈悲の心、憐れみの心には限界がある。イライラしていたり疲れている時に、困っている人を助けるのはなかなか難しい。だからといって、その救いきれなさを外部が簡単に補完してしまっていいのだろうか?人間性の最も崇高な側面を義務化してしまってよいのだろうか?「当為」か「規範」か。あなたはどっちがお好き?


ファッションブランドについて

また若干更新が滞ってしまった…。iPad用に使いやすいBluetoothキーボードを購入したので、これからはいつでもどこでもブログ更新できるぞー。

さて、またお洋服についてのお話でございます。ここ最近服にご執心の俺様は、物欲の権化と化しております。しかしながら当然欲しいから即買うなんてことをし続ければ破産するのは目に見えているわけで、なるべく賢者モードにもっていくことを心がけておりますのです。

さて、きょうび、ファッションブランドなんて履いて捨てるほど存在する。そんな中でもうまくブランドイメージを構築して固定客a.k.a.信者を獲得したブランドだけが我が世の春を謳歌できる。なかなか大変な世界だなと思うわけだ。
以前、某有名セレクトショップのお偉いさんにインタビューする機会があったので色々とお話を聞けたのだが(若年層を中心に非常に人気のある新興セレショだ。きれい目なブランドを主にセレクトしている)、ブランドイメージを作るのに非常に苦心している様子だった。単にセレクトするブランドだけでなく、店舗の雰囲気、服のディスプレイ方法、果ては店員の教育まで、そのショップにまつわるありとあらゆる部分を「オサレ」にする工夫を施しているそうである。まあ確かにショップごとにカラーがあるなと思った。一見無意味な装飾にもブランドの高級感を維持するために重要なのだろう。
こないだの記事でも取り上げたが、一定以上の価格帯のブランドは、陳列された数々の法外な値段の洋服たちに対して「質」という言葉を用いて正当化を図る。国産だの、メイドインUSAだのといった縫製した国についても言及し、一生懸命その服がなぜそんなに高いのかを説明するのだ。けど、大体ブランドのおべべが何故高いかって、「ブランド料」に決まっているのだ。

よく訪れる個人経営の小さい服屋なんかでは、ブランドタグのない所謂「サンプル品」が割とおいてある。んで、そのタグがないとその服の値段は大体半額くらいになる。奥様聞きました?「半額」ですって!そうなのだ。たまにやるセールとかで50%オフとかやってるけど、あれで適正価格なんじゃないかな。そのくらいブランドってのはふんだくってるわけだ。イメージに気を配っているブランドほどそういうサンプル品の流出はマズいわけで、だからか知らないけど高級ブランドのサンプルというものを俺は見たことがない。けど大手セレオリくらいなら平気でタグなし商品は出回っている。デザインも、「質」も何もかも変わらないのに半額。こういうのを見るたびにブランド品を買うのが非常にバカくさくなる。

ブランドに対して熱狂的になれないのは、俺の個人的体験に依るところもある。俺は大学1年くらいの頃、よく派遣でバイトしていた(この話もいつかブログに書きたい)。その中でもよくやっていたのが洋服のピッキングだ。台車にダンボールを載せて、デカい倉庫に所狭しと放置してある服をとって服屋に発送するお仕事だ。もともと服好きだったのだが、この倉庫の光景は割とショッキングだった。それなりの値段がするバッグが、汚いビニール袋に無造作に入れられ、積み重ねられている。ビニール袋ごしにタグを見ると何万もするようなバッグだ。やはりディスプレイって大事で、こういうふうに汚らしく置いてあるものなら普通の人は絶対に手に取らないだろう。アパレルの店員なんかはそういうことをわかってなお服屋で働いているのである。彼らは真の服好きだと思う。俺の知人に、原宿のストリート系のショップでバイトしているやつがいるんだが、彼もそういう裏事情的なものについてこぼしていた。

ブランドかどうかなんて誰も気にしちゃいない。結局のところ自己満なのである。これを満たすために大枚はたいて内実の伴わないスカスカの服を買うのって…。いや、もうこれ以上ブランド好きな人間の水を差すのはやめておこうか。こんなこと言ってるなら服を自作しろよという話なのだ。自作か…。結構いいな、やってみようかな。




















寒い

なんだか寒い気がするんだけど…いやいや、実際寒いでしょう。キャンパスを歩いていても厚着をしている人が、それでもなお寒そうに身体をちぢこませて歩く姿を見るのが珍しいことではなくなった。いやあ、寒いですわ。非常に寒い。なんかこの一週間くらいですごく気温下がった気がするんだけど、これは俺だけではないよねきっと。

けどまあ、寒くなるにつれて街頭を歩く人たちの服装が変わっていく様を見るのもなかなか楽しい。ついこないだまでみんなシャツにニットだったのが、今となってはメルトンのコートにマフラーをぐるぐる巻きにしている人のほうが多い。こないだ色々とお世話になっている古着屋の店主の方と雑談をしていたんだけど、「日本は四季があるからこそ洒落た人が多い。服装に気を使う風土が備わっているのでは」というようなことが話題の俎上に上がって、妙に納得してしまった。確かに年がら年中寒かったり暑かったりしたら、服装にこだわり持つようなことなんてしなくなるよね。
だからといって俺のもとには資本が無限に蓄えられているわけでもない。限られた予算の中でいかにして気に入った服を買っていくか、ということは俺含めた大半の学生たちの至上命題だと思う。昔っから服には割と金かけていた俺だが、引っ越してきて生活費、家賃も全部自分持ちということでそんなこともできなくなってきた。俺が近隣の古着屋に足を運ぶようになったきっかけは、決して古着が好きだったからではなく、安さと服自体の質のバランスをとるための苦肉の策だった。だいたい、つい最近まで俺は古着が嫌いだった。変なニオイするし、アングラな雰囲気でなかなか入りづらかったり、店員の愛想が悪かったりで。チェーン展開している古着屋はそんなことなかったりするのかもしれないけど、まあとにかく俺はかなりの偏見を古着/屋に対して持っていた。
ところがどっこい、古着屋って一回利用してしまうともう新品のショップになんて行けないくらい便利なことがわかる。なんといっても安い。つい先日、ShottのPコートを古着で購入したのだが、値段はなんと7千円強。普通にセレショで買ったら2万とか3万もするような代物だ。古着といっても状態はかなり良く、年一回クリーニングに出す等の手入れをすれば十年選手は固いだろう。別にクサくもないし(失敬、古着がクサいというのは完全に俺の間違った偏見だ)、なんか普通に新品を買っているような気分である。それから、特に個人経営の古着屋は、掘り出し物が眠っている確率もかなり高い。欲しかった服が良い状態で、かつ定価とは比較にならないほどに安く売られているのであれば、そのチャンスを利用しない手はない。かなり前に買ったJOHN LAWLENCE SALIVANのスラックスなどはその典型だったと思う。あれは本当に良い買い物だった。

最近よく思うのだが、新品の服だって一週間ほど着用したらもう立派に古着である。その一週間を楽しむためだけに高い金額を支払うのは、古着屋で買い物するとなんだか馬鹿らしくなってしまう。勿論俺も新品の服は買う。古着屋で売ってるような白シャツなんて着たくないし、靴なんかは絶対新品を買うように心がけている。要はバランスの問題だ。新品の服しか買わないのであれば費用もかさむし、反対に古着ばっかり着てたらひょっとすると小汚いという印象をもたれる可能性がある。高くついてしまうものは頑張って古着屋をめぐって探し、そこまで値段の張らないものはセレショやブランドの直営店で買えばいいのだ(当然ユニクロやしまむらという選択肢もアリだ)。

古着/新品という話から少し脱線して、TPOに照らして服装が適切か否か、そういうところに服選びの軸をおいてチョイスするのも楽しい。例えば一週間後に好きな女性とのデートの約束があるとする。そのための服を買うとなれば、当然ジャージやスウェットといったものに食指を伸ばすのはタブーである(と俺は思う)。考えなければならないのはその異性とどこへ行くのか、何をするのか、そしてその異性がデート相手に対してどんな恰好を求めるかということである。そうすると大抵の場合、ジャケットなんかの相応しいという結論に落ち着くわけだ。日常に照らして考えるのもいい。大学に全身コムデギャルソンを着ていったら間違いなく浮くし、なによりも大学という施設を利用する際に相応しいとはいえない。我々はトレーニングをする時、速乾性のジャージや機能的なトレーニングシューズを履く。推測するに、これは単に用途や機能の問題だけでなく、おそらく「その場に相応しいかどうか」という価値判断も同時に働いているのだといえるのではないだろうか。あり得ない話だが、もし仮にジムではコテコテのブリティッシュスーツを着るのが当たり前となった場合、そこで我々はジャージを着ていくことなど寸毫も考えないだろう。TPOとは時代によって仮構され、トレンドになることで敷衍するのである。そういう意味で、多少なりとも流行を知っておくのは嗜みとして大事なのではないだろうか。「俺は流行なんて追わねえ」という態度も、結局は流行についてある程度知識がなければとれないものだから。ま、なんのかんのと書いてきたけど、まあ言いたいことは「寒い」この一言に尽きるね。