doublubonのブログ

色々なことについて書きます

「私って社会不適合者じゃん」

こんばんは。自主ゼミのレジメ作成で疲れ切っているものです。タイムリミットは土曜の14時!果たしてこの男は間に合うのか!?乞うご期待

っていうのは置いといて。今回はちょっと苦言を呈させていただきます(いつも苦言と批判ばっかじゃねーか、という声が各方面から)。



「私さー仕事できなくてよく指摘されるんだけどね。ホラ私って社会不適合者じゃん?自分の好きなことになら全力投球できるんだけど、反社会的だから好きじゃないこと指図されるのは嫌いなんだよね。」

これは、昼下がりのカフェで俺が勉強している中、喫煙席の角を陣取っていた女性が友人と思しき男性に向けて放った言葉だ。お、おう…としか言いようがない発言である。口ぶりから察するに、どうやら社会人らしい。いや、なんつーの、あのさ、

ふざけんなボケ!

こんなやつが堂々と社会人名乗れるなんてどうかしてる。自分探しを拗らせてしまった女子大生並みの発言しかできないようなやつが社会にはびこっているのである。まったくもって異常としか言いようのない事態だ。どうなっちまったんだニッポンよ。

まず最初に言わせてもらいたい。「変人」「頭おかしい」「キチ⚪︎イ」「社会不適合者」というような一見ネガティブな単語を自分を飾り立てるために使わないでほしい。流行ってんのか知らないが、最近の大学生にとって「変人」等々の言葉はどうやら褒め言葉として機能しているようだ。「あいつはヤバい。変人。キチ⚪︎イだしほんと頭おかしい」このセリフはその「あいつ」を貶しているのでは決してなく、むしろオンリーワンの個性的な存在として称賛するために用いられているのである。変人認定されると昨今の大学生はキレるどころか照れさえするわけだ。この傾向は学生間で広く共有されていると思ってよいだろう。
儒教主義者の俺からしたら嘆かわしい話である。儒教では誰しもが「人らしさ」を体現した存在となるべく「道」を窮めることが是とされる。この「人らしさ」とはつまるところ仁義礼智信の五行を指し、道とはこれらの実践を意味するわけだ。多分に儒教的価値観が受容されていると思われる日本であるからして、この考え方もある程度は認知されているだろう。年寄りの説教くさくなってしまうが、儒教において「道」から外れることは即ち「禽獣」になることと同義である。早い話が人間以下の存在に成り下がるということだ。しかしながら、若者の間では「道」から外れることこそがカッコいいという風潮が構築されつつある。変人認定されることと禽獣認定されることは同じ意味を持つにも関わらず。まあなんというか、不良に憧れる中学生のようなものなのかもしれない。
本当に不良の仲間入りを果たせば、少なくとも筋を通したということでその中学生は友人らから敬意の眼差しを受けるだろう。しかし話を戻して先ほどのクソ社会人やクソ大学生にこのロジックを当てはめてみると、彼らは全然社会不適合でもなければキチガ⚪︎でもない、変人でもなく頭がどうにかなっているわけでもないのだ。つまりはファッション。「社会から逸脱した俺」というこれまた拗らせた自意識を持つ普通の人の精一杯のアイデンティティの叫びなのである。泣けてきた……。

健康でいいんだよ。社会適合者でいいんだよ。普通の人でいいんだよ。普通でいることが一番大変なんだから。あなた方のその悲痛なる魂の叫び(らしきもの)は、端的に言って自身の甘えを正当化する手段に過ぎないよ。だからこう言わせてくれ

黙ってやることやれ

おしまい。