doublubonのブログ

色々なことについて書きます

ある男の懊悩


「私は大学3年次から今に至るまで、日本とミャンマーを拠点としたNGO活動に携わっています。企業からの投資が打ち切られ、NGOの活動費を調達する必要に迫られた時、私はクラウドファンディングで費用を集めることを提案しました。私はクラウドファンディングの責任者としてウェブページの作成を任されました。より訴求力のあるページを作成するために実際にミャンマーに赴き、現地の人々と対話し、写真を数多く撮影しました。また、そのNGOの施設を見学することで、ウェブページに載せる文章により説得力を持たせる努力をしました。そしてウェブページを公開したのちはSNSやビラ、さらに公共放送などを駆使して広報に力を注ぎました。その結果、目標金額200万円を大幅に上回る300万円を調達することができました。責任者としてチームを指揮した経験は、この先必ず役立つだろうと確信しています。」
決して上手とは言えない手書きの文字を羅列したエントリーシートを見返して、彼ははふうとため息をついた。たった1年ほどの経験を−−そもそも対外的に発表するようなものでもない経験を−−得々と語っていったい何になる? 当時の自分はそれなりに真っ当な使命感に駆られてこの仕事をしていたと記憶している。自己愛はそんな経験を美化するためのスパイス程度のものだった。しかし、「就職」という日本の高等教育の受益者たちの殆どが避けて通ることのできない二文字が徐々に彼の中で大きくなっていくにつれて、彼自身の人生の中で貴重な時間だったであろうミャンマーでの一連の仕事は、徐々に「就職の手段」として貴重になっていっていることに気付いた。
この気付きは、内的なものと外的なものを彼が綜合的に判断した結果生じたものである(そもそも人間に純粋な「内面」なるものが存在すればの話だが)内的なものとはすなわち内省、主として大学の講義を終えて帰宅するまでの一時間弱の間に慣習的に行われる自己の内面の思索である。月曜日から金曜日まで、たいてい同じ時間に粛々と行われるこの儀式は、彼自身の性格を大きく規定する「癖」となっていた。自己の客体化、相対化、対象化−−言葉はなんであれ、彼は幼い頃から飽きもせずに行っていた内省によって自分自身を自分の外から視るようになっていた。自分と世界を完全に切り離し、「自分ありきの世界」ではなく「世界ありきの自分」を常に意識して生活していた彼は、その結果として自分の主張を押し通すのではなく、その場の調和を保つことが重要だと考える人間になっていた。この性格は職に就くためには、というテーマで繰り広げられる内省の最中にも遺憾なく発揮される。つまり、「周囲と同様、自身の経験をネタ化することこそが就職活動の要諦なのだ」と考えるようになったのはごく自然のことなのである。しかし、悲惨なことに彼は本心ではこの真逆のことを考えていた。つまり、「俺が彼の国でしてきたことは、就職のための道具ではない。自分自身が望んで、彼の国の人たちのためにやったことなんだ」というのが彼の偽らざる本音なのである。彼のこの葛藤は、資本主義的生産様式に即した人間、俗な物言いをすれば優秀なビジネスマンへの変化を強いられたが故に生じた、どんな人間も一度は経験したことのあるものである。しかし、どんな人間にとっても自分の悩みや苦しみは特別なものだと錯覚してしまう習性があるのと同様に、彼もまた、自分のこの葛藤はそう多くの同級生が持つものではない特殊なものだ、と誤解していたのは若さに免じて許してやるべき類のものだろう。
外的要因に話を移そう。彼の人間関係は乏しいものであったが、数少ない知人と呼べる存在の上級生たちは、なんら臆することなく自己変革に成功し、つまり優秀なビジネスマンとなる資格を得て大学を巣立っていったのである。彼らが一様に口にするのはこれである。
「理念を語る前に、まず自立しないとだめだよ、君」
年がら年中酒を呷り政治について、自分の将来の夢について口角に泡を立てながら赤ら顔で語っていた彼らは、就職を機にまるでお仕着せの服を着せられたようににやけ顏でこの文句を唱えるようになった。彼らは労働を通して抗いがたいこの高度資本主義社会の現実を思い知ったのだろうか。彼らは急に自分が世界の真理を知っているかのような口ぶりで話し始め、そして最後には現実主義の究極−−「経済的に自立しろ」を彼に放ってくるのである。
いつの時代も年齢の低いものは年齢の高い人間の価値観を内面化する。「年功序列」という制度は何も日本に独自のシステムではない。いわゆる「歴史」について等し並に興味があり、「歴史から学ぶものはある」と考える人間全てが無意識にこの年功序列制の体現者となっているのだ。彼もご多分に漏れず「彼らは自分よりも先輩である」というその一点だけを頼みにして「自立しろ」の文句を受け入れたのである。これが外的なものである。
彼の本音と建前の決闘は未だ決着のつかない熾烈なものとなった。なぜなら、彼は端的にいって優柔不断な男であり、普段は大言壮語を吐くものの実際の決断を迫られた途端に意気地をなくす小心者だからである。彼はどこにでもいるような平凡な人間だった。自分には他を寄せ付けない才能があり、自分は成功するだろうと根拠のない楽観に浸る点こそ、彼を平凡たらしめている何よりの証拠であることに疑いの余地はないだろう。そんな自分の非凡を信じる平凡な彼だからこそ、非凡さを周囲に証明する必要があった。たいていの大学生にとって、最も賞賛を受ける機会は就職活動中に到来する。名の通った大きな会社と握手を交わした人間は、下級生からは淀みのない激賞で迎えられ、同級生からは少しばかりの嫉妬とともに暖かい労いの言葉がかけられる。つまり、日本の大学生にとって就職活動とは自らの人生の分岐点であるとともに、大学受験を軽く上回る「神話」を形作るためのまたとないチャンスなのである。
就職活動とは−−どこかに共通する厳しさや大変さはあるにしても−−ある人にとっては至福であり、またある人にとっては地獄の仕打ちである。就職活動を斡旋し、日本の新卒一括採用システムを強固に作り上げたある会社の役員にとって、一般的に知られる就職活動はまさに金の成る木であり、この木を手塩にかけて育てることこそが彼らにとっての生きがいなのである。それ以外の人たちはこの会社が作り上げた就職活動なんてなくなればいいと思っている。結局美辞麗句で装飾したところで就職活動とは利益追求を目的として体系化されたものであり、それにあやかれる人間はほんのわずかなのである。

 

 

 

 

そんなことを考えているうちに彼は就職する機会を逃した。